作成日: 10/03/28
修正日: 10/07/28

放射線安全管理の社会的な意義とは何か?

放射線安全管理も、どれだけ生活に役立っているかをアピールした方がよいのかもしれない。



いつものように広い視野で歴史的な経緯が学べるコラムね。


IAEAはノーベル平和賞を受賞(2005年)しているのに、
ICRPが受賞していないとは知らなかったわ。

活動のインパクトを評価するための「社会にとっての有用性指数」が開発されたらノーベル平和賞との関係を調べてみたい。



正義かどうかであることと社会にとって有用かどうかということ

ICRPが放射線利用のJustificationを放射線防護の前提においていることが、よくないと述べられているようだけど、どのような思想的な立場を保持すべきということなのかしら。

赤十字国際委員会が「義の存否を問わずに、活動を続けてきたらこそ声価を高めて」とあることにヒントがあると思うけど、このコラムだけからは読み取れない。
加藤先生によると「正当性」というのは、ヒトに放射線を照射したり暴露に導く行為が正義かどうかを判定する際の“原則”としては馴染むけれども、放射線防護が適切かどうかを判定するための原則としては馴染まないのではないか、ということを述べたかったそうです。要は、ICRPとその勧告は現場の放射線管理に有用ではないということを述べたかったそうです。

正義であるかどうかより有用であるかどうかが重要という功利主義的な立場ね。 この立場だと役だったかどうかの評価法を確立する必要性がありそうね。
加藤先生は、今の放射線防護には無理があるとも述べられているようだけど、
その理由はどういうことかしら?

医療と自然からの曝露がほとんどなので、その他の人工放射線源の管理を頑張っても、国民が受ける線量の低減にあまり寄与しないということみたいだ。

確かに社会資源は限られているので、規制影響分析的なアプローチが求められると思う。
でも、加速器施設の放射線管理をきちんと行うことは、そこのスタッフや家族の心の安寧だけではなく、様々な波及効果があると思うけど。
それに自分にメリットをもたらさない場合とそうでない場合だとリスクの受容の大きさは変わるのじゃないかしら。
放射線の影響が放射線の出自を問わないのは、当たり前だと思うけど、それで何が言いたいのかしら。

放射線によい悪いもないということかもしれない。
確かに、同じ放射線でも医療で使うX線と原子力施設からごくごく放出される放射性物質だと人々のリスク認知が異なりそうだ。

医療で使う放射線が役立っていることを医療関係者がきちんと説明しているから認知の偏りが小さくなっているのじゃないかしら。
そもそも、放射線管理は、放射線リスクを一定以下にすることではなくて、放射線から受ける利益とバランスを取ることでしょ。
だったら放射線影響の大きさだけの制御を考えるというのがピンと来ないわ。
それに、「放射線への暴露に“正当性”を求めるシステム」は本来的なものだと思うけど。

加藤理事長は職業人であれ一般公衆であれ、放射線曝露によるリスクは一定以下に制御すべきという信念をお持ちなのです。「物理学者のハシクレ」として譲れないそうですが、医療従事者とはセンスが違いそうだ。

医療従事者だと自分が他人の健康を守るためにUVRで被ばくする線量の限度と、病院内の職員住宅で暮らす家族が病院内の加速器利用や核医学診療に伴い受ける放射線の量の限度では異なる基準を設けることに何の疑問も持たないと思う。

放射線利用が正当であることが理解しがたいにもかかわらず、正当であることを前提にして、防護システムを設けたことが、日本国民に「放射線嫌悪症」「放射線過敏症」を持たらしたということね。
でも、放射線診断だと、ごくわずなか放射線リスクはもたらすとしてもメリットが大きいことは、一般の方にも理解されていると思うけど。
それに、ICRPのロジックが、日本国民に「放射線嫌悪症」「放射線過敏症」がもたらしたというのもピンと来ないわ。

リスク認知の形成がどうなされているかの研究が進んでいるので、今後、もっと本質的な理解に向かっていくと思う。


単にゴジラの映画のインパクなんじゃないの。
放射線源の違いや使用目的を考慮しない「単純にして統一的な放射線防護システム」って、どういうイメージなのかしら。

客観的な功利主義の立場だと、どの程度の手間をかけられるかを、その手間で回避できるリスク低減の大きさとのバランスで考えるということではないかなあ。

余裕深度処分の管理期間終了以後における安全評価に関する考え方(案)での、
設計評価のための「めやす」としての10µSv/yをどう考えるかということね。

リスク評価とリンクさせないと管理の最適化は考えられないから、
リスク評価は政策決定者に理解されないと逃げるのではなくて、
その限界も提示して、国民の理解を求めるしかないように思うな。
「めやす」は何のためにあるのかが理解されなければ意義がない。

放射線安全管理も、本当に意味があって、それが日常生活に役立っているというイメージをみんなが持つようになればよいのではないかしら。